『本へのとびら』(宮崎駿 著)を読んで。文学と、実物を自分の目で見て感じることについて


『本へのとびら』(宮崎駿 著)という本を書店で見かけ、手にとった。ページをパラパラとめくってみると、「児童文学が気質に合う」という見出しが目に留まった。

キェルケゴール、これもわけが分からなかった(笑)。つぎは日本のものも読まなければいけないというので二葉亭四迷、これは切なかったですが、まあついていけた。でも、日本文学はもういいや、四迷でおしまい(笑)。それで、四迷に影響を与えたツルゲーネフ。ドストエフスキーにも手を出しました。
ドストエフスキーの『罪と罰』は正座するような気持ちで読みましたが、『地下生活者の記録』になったら、自分が解剖されているような感じで、読み進められないんです。息もできない感じでした。
必読書のはずの「カラマーゾフ」まで進めなかった。似たような経験が何度かあって、結局、僕は大人の小説には向いていない人間だということを思い知らされました。何でこんな残酷なものを人は読めるのだろう、と疑問に思ってしまってね。児童文学のほうがずっと気質に合うんです。
出典:『本へのとびら』(宮崎駿 著)p. 69-70


ぼくも一時期、時の試練に耐えて「名作」として生き残ってきた文学作品をあれこれ読もうと試みていたが、気の進む作品があまりなく、ろくに読まずに終わった。ロシア文学では、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を最後まで読んだが、『戦争と平和』は読んでみたいという気持ちはありつつも読めなかった(トルストイは小説よりも随筆のほうが好きで、『芸術とはなにか』は夢中で読んだ)。ドストエフスキーは、時々本を手にとってみるものの、どうも読む気になれなかった。

日本の文学で、好んで読んだのは、志賀直哉と武者小路実篤と倉田百三の作品。同じ作家のものばかり読んでいると、考え方や文体などが似てきてしまいやすいと思い、他の作家の本もいろいろ読もうと試みたが、なかなか「気質」の合う作家に出会えなかった。もっと幅を広げたいとも思ったが、面白く読めない本を「勉強的」に読んでもろくなことがないと思い、それでよし、とすることにした。

上で引用した、宮崎駿さんのエピソードを読んで、それでいいんだ、と改めて思った。「必読書」なんて言われることのある文学作品なんて読んでいなくても、あんなに素晴らしい作品をつくれるのだから。名作といわれる世界中の作品を読み漁ったからといって、そこに付け加えられるような名作を新たに生み出せるとは限らない。むしろ、自分の「気質」に合う作品と出会うことのほうが大事かもしれない。

ぼくも大人の小説よりも児童文学のほうが気質に合うかもしれないと思い、この本を買ってきた。この本では、宮崎駿さんが子どもの頃から読んできた岩波少年文庫の中からおすすめの50冊が、コメント付きで紹介されている。まだ読めていないけれど、読んでみたいと思う本がたくさんあった。

本書の前半は児童文学50冊の紹介、後半は、子どもの頃からの読書体験、児童文学の挿絵の魅力、震災後の世界について、といったテーマの文章、という構成になっている。

後半の文章で、ものの見方についての話があり、他人事では済まされない、大事な警鐘を鳴らしてくれているように感じた。

挿絵の時代から、映画になり、テレビになり、それがさらに、携帯で撮った写真を転送して…というように、映像が個人的なものになった結果、「現実に対するアプローチの仕方はどんどん脆弱になっていく」という。

本物というか、なまものというものはつかまえにくいものです。光線や空気や気分でどんどん変わっていきます。たとえば、目の前に見合いの相手がいて、ドギマギしながらちょっと言葉をかわすだけで判断するより、正しい照明で写真やビデオに撮って、こっそりひとりで落ち着いて観たほうが本当のことが分かるんじゃないかと思うようになるんです。実際そうしかねない人間を何人も知っています(笑)。
出典:『本へのとびら』(宮崎駿 著)p. 129-130
最近は、多くの人がSNSで自分の姿を無防備に発信しているから、お見合いでその場だけ澄ましている姿を見るより、自分の部屋でひとりで落ち着いて相手のタイムラインを観たほうがその人の正体が垣間見える、ということはあるかもしれないけれど、SNSで自分をどう見せるかは、当人による「編集」がある程度入っている(その程度がどれくらいかは、人によって異なるけれど)。インターネットではなくオフラインで会う場合でも、時と場合と相手に応じた振る舞いをするわけだけど、目の前に現実にいる相手から読み取れるものは、文字や写真や動画とは次元が違う。

写真がこれだけ身近になり、ブログやSNSで常日頃発信していると、目の前の実物を見ても、それを深く読み取ろうとするよりも、どう写真に撮ろうかという意識が働くことがあり、そういうのはよくない傾向だと自分でも思う。ものの見方が浅くなってしまう。実物が目の前にあるのに、写真のようにしか見れないのなら、写真を見れば十分、ということになってしまう。

この世界をどういうふうに受け止めるんだ、取り込むんだというときに、自分の目で実物を見ずに、かんたんに「もう写真でいいんじゃない」となってしまう。写真自体も、いくらでも色やコントラストが変えられるから、好き勝手にしているでしょう。ですから、ほんとうに自分の目がどういうふうに感じているのかということに立ちどまらなくなっています。
出典:『本へのとびら』(宮崎駿 著)p. 131
現代社会で暮らしていると、一日のうち、実物を見るよりも、紙や画面上の文字や写真や映像を見る時間のほうが多い、ということもある。最近はそうでもなくなったけれど、東京のアパート暮らしで仕事に追われていた時期は、一日中パソコンの画面を眺めていた。人間、そんなふうに過ごしていると、やはりバランスを回復しようとして、外に出掛けたくなり、よく公園を散歩した。「実物」の木々や鴨たちを見ると心が癒やされた(そんなときでも、よくデジカメを持ち歩いて写真を撮っていた)。

写真や映像は便利だし、「道具は使いよう」だけど、まずは「自分の目がどういうふうに感じているのか」をしっかり感じることを忘れないようにしたい。


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by 硲 允(about me)
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