大学生の頃にに書いた投書と、他人の文章に手を入れることについて。


家の片付けをしていたら、大学生の頃に新聞に出した投書が出てきた。

掲載された自分の投書だけ切り抜いているので、何の新聞だったか忘れてしまった。当時のぼくはプロの通訳者になることを目指していて、そのための勉強に新聞を読んでいた。日本語の能力を鍛えるために、掲載されるまで毎週投書を出そうと思い付き、さっそく実行したところ、最初に出した投書が掲載された。いい勉強法を思い付いたと思ったのに、あっけなく終了してしまった(何回でも出せばいいのに、「載るまで」の計画だったので、続ける気にはなれなかった)。

投書のタイトルは、「教科書無償配布 見直しは慎重に」。無償配布されてきた小・中学校の教科書を有償性、あるいは貸与制にすることを政府が検討していることに懸念を表する投書だった。結局、今も無償配布は続いているようだ。

新聞の投書というのは、たいてい、読者の文章が完全にそのまま掲載されるわけではなく、編集部によって多少の手直しが入るらしい。このときも、電話がかかってきて、語尾や言い回しなどを手直しされた文章を口頭で読み上げられ、それで問題ないかどうかを確認された。メールで送ってもらえたら文章をじっくり読むことができるが、たしか、そんな時間の余裕がないと言われた。一刻を争う投書でもないのに、どうしてそんなに余裕がないのだろうと不思議になった。掲載できるような投書が余程少ないのだろうか、とも思った。

どこを直されたのかはほとんど忘れてしまったが、「真新しい教科書の手触り、紙やインクのにおい……」と直されたのを掲載された新聞で見て、「あちゃー」と思ったのはよく覚えている。元はどう書いていたのか忘れたが、この場所に三点リーダ(…)を二つ並べたのは編集部で、こうするとどうもダサくなり、大学生の投書だからといって、わざと子どもっぽくしたのではないかと思って腹立たしかった。電話で読み上げられたときは、「三点リーダ」までは読み上げられず、わからなかった。

内容の大きなところは直さないにしても、語尾や言い回しなどの表現を変えてしまうと、文章に表れる書き手の人柄や人格に手を入れることになり、そういうことはなるべく抑制的に行うべきだと思うが、下手に自分の文章に自信がある人間ほど、他人の文章に嬉々として手を入れる事例をいくつも見てきた(ぼく自身、一時はそういう傾向があった)。

この投書が掲載されたあとは、他人の投書を読むときも、編集部に手直しされた文章だという前提を頭に入れて読むようになった。

文章というのは、読みづらかったり、語尾が単調だったり、言葉のつかい方が間違っていたり、論理が破綻していたり支離滅裂だったりしてもOKだと思う。書き手の思考や想いや意図が、書き手の技量内で表されているのが一番自然で、受け手にそのままの形で直に伝わりやすいと思う。表面的にきれいな化粧を好む者もあるが、ぼくはそれよりもその下に隠された正体に惹かれる。


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by 硲 允(about me)
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