「他人の期待」と人生の選択について。


何をして生きていくかに正解はない。客観的な正解があるとすれば、人間は誰か(何か)の操り人形のようなものだということになってしまう。

人間には自分の意志でどう生きていくかを決める能力が備わっている。

他人が例示した人生をたどるのも、誰かに要求された人生に甘んじるのも、その人の意志による決定である。模範解答や同じような事例のない人生を歩むには、最も力強く自分の意志を働かせる必要がある。

人生のコースを決定するうえで、時に大きな影響を与えるのが「他人からの期待」。

他人が期待によって用意されたコースを選ぶのは、メニューにないコースを自分でつくるよりもわかりやすく、そのコースの先には、少なくとも、期待した人が喜んでくれる(かもしれない)、という結末が用意されてそうに思えるので、何となく選んでしまいがち。
しかし、他人が期待したコースを選んで、本当に自分の人生を満足させることができるかどうかをよく検討しないと、そのコースの先で後悔することになりかねない。

お世話になっている人や、自分が好きな人や尊敬する人などの期待であればなおさら、それに応えたくなるものだけど、立ち止まってよく考えたい。

他のよさそうなコースと比較検討する際、他人の期待や思惑は一旦脇に置いて、自分の心を見つめてみる。自分が一番ワクワクするコースはどれなのか。

そのコースが、大事な人の期待と一致していない場合、その期待についても吟味してみる。

その期待には、思慮深さと愛があるかどうか。

相手のことを思って、相手の人生のコースに何らかの期待を抱いていたとしても、世の中の古い固定観念などに囚われていて正確な知識がなかったり、そのコースの先に待ち受けているものを的確に予測できていなかったりすると、相手の人生の幸せにつながらないコースを期待してしまいかねない。

誰かの期待がそういう類のものであると思った場合、その理由を丁寧に説明すれば、ある程度わかってもらえることもある。賛成してくれる、というよりも、「自分でよく考えてそう決断したのだから」、ということで、渋々納得することが多いのではないかと思う(他人の人生のコースに対してしつこく干渉するとろくなことにならない)。

本当に思いやりのある期待であれば、相手の幸せを願っているはず。ゴールは、幸せになること。それならば、相手が期待するコースを歩まなくても、自分が幸せに至ると信じられるコースを選び、結果的に幸せになれば、当初別のコースを期待した相手も結果的に喜んでくれるはず。

自分の期待通りのコースを相手が歩まなくて不満そうにし、期待外れのコースを歩み始めてからもなお不満そうにしているような人は、結局、そのコースの先に実は幸せがあったとしても、なお不満そうにしているかもしれない。

幸せに至る道は人それぞれ。それぞれ、自分自身で決定する自由がある。だからといって、他人が歩むコースに全く無関心というのは思いやりが足らない。お互いが幸せにいたるコースについて思いを馳せ、たまには相談し合い、相手が自分には意外で不安に思うコースを歩み始めたとしても、それでも応援し続けることのできる人間でありたい。


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by 硲 允(about me)