手づくりのプレゼントを贈ることについて。気持ちを込め、気持ちと向き合う



相方が手縫いで友人へのプレゼントをつくった。「喜んでくれるかなぁ?」となぜか不安そうにしていた。

本で見て知って初めてつくったものなのに、普段から縫い物をしているのでしっかりとした仕上がりでデザインもよかった。

「手づくりのものって、重たいとか言うやん?」
「そんなんは反抗期の学生の考えやで!」ととっさにつっこみつつ、手づくりの贈り物を喜ばなさそうな大人の顔も浮かんできた。

まず、贈り物を通じて他人を自分の望み通りに動かそうとするような人。あとから自分の利益を得るために、最初にモノを渡して「貸し」をつくろうとする人にこれまで何人か出会ってきた。ちなみにぼくは、いくらモノをもらっていても、その後、自分や相手や世の中のためにならないと思うことを頼まれても断る。そういう相手には、モノをあげても操縦できない場合がある、ということを思い知らせたほうがいい。

手づくりのプレゼントをもらって喜ばない次のパターンは、言い方がわるいけれど「心が死んだ」人かもしれないと思った。人間、自分と異質のものには違和感や拒否反応を示しやすい。子どもの頃から人間にひどい目にあわされて人間不信になっていると、やさしげなことをしてくる相手を警戒するはず。人工的で無機質な世界に馴染んで「気持ち」を封印してしまっていると、想いのこもったプレゼントに違和感を感じたり気持ちわるく感じることは想像できる。

そういうぼくも、相方と出会う前は、プレゼントを贈る習慣がなかった。プレゼントを贈ることに対して、なぜか偽善的なものを感じていた。相手が喜んでくれない可能性もある一方で、相手が喜んでくれてようやく自分が喜べることに違和感を感じていた。そもそも、相手が何を必要としているかを思いめぐらす「思いやり」が不足していた。

ところが、相方のプレゼントに付き合って一緒に選んでいろんな人にプレゼントを贈っているうちに、プレゼントを贈ることの喜びを覚えた。時には相手が必要としていないものを渡してしまっていることもあるかもしれないけれど、相手のことを思いながら選んだりつくったりしたプレゼントは、たいてい喜んでもらえる。喜んでもらえることが自分の喜びにもなる。プレゼントというのは、そこで完結するもので、お返しなどを期待するとおかしなことになる。

資源が有限な人工的な世界では、不足の恐れから貸し借りの概念が発生するのだと思うが、道ばたに無限に生えたねこじゃらしを一本摘んで文句を言う人は誰もいない。あらゆるモノに所有者のラベル付けをした人工的な世界の一片を切り取って、その受け渡しで貸し借りを計算するというのは「みみっちい」ことだと思うが、そういう世界で生きているのだから、ある程度仕方ないこともある。

話は元に戻るけれど、プレゼントというのは、相手に渡す前から始まっているのだと思った。損得勘定でわたすプレゼントではなく、ただ単にに好意を込めてプレゼントを相手に贈りたい、という場合、つくるときから、あるいは選ぶときから、相手に好意的な気持ちを送っている。手づくりの場合、その気持ちをダイレクトにプレゼントの品に込めやすい。

人によっては、手づくりのものより市販されているもののほうが「ちゃんとして」いて「格上」だという価値観をもっている人もいるらしい。手づくりのものを見て、「売ってるやつみたい」と言われたことがあるのかないのか、記憶にないが、そう言われたらちょっとがっかりすると思う。その場合、「売ってるやつ」というのは、おそらく機械でつくられた製品のイメージだろう。機械でつくればぴしっとしたものはできるが、手で作ったアナログの味はでない。もちろん機械でしか作れないものもあるし、どっちが好きかは人それぞれなので、相手の好みを想像する必要がある。

忙しい世の中では、人間の「気持ち」が置き去りにされがちだけど、プレゼントというのは、自分や相手の「気持ち」と向き合う機会になる。


by 硲 允(about me)
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