小さなこどもに対する無防備な表情を誰にでも向けられる世の中へ



電車に乗っていると、世間の人間関係に疲れてそうな人が、他人の小さなこどもをいかにも「かわいい!」というような顔で見つめているのを見かけることがあります。

ずるい大人や卑怯な大人、傲慢で尊大な大人たちとの関係に疲れきっていると、こどもが天使のように見えるのでしょう。その気持ちはある程度わかります。

そのこどもたちの親は、自分のこどもをそんな表情で見ていません。子育てをしていると、かわいいときもあれば、そうでないときもあるし、憎たらしいときでさえあるでしょう。

こどもの可愛さに見とれている人も、そのこどもを育てる立場にあったとしたら、そういう顔をしていられないだろうなぁ、と意地悪なことを考えてしまいます。

それにしても、そういう人たちのそういうときの表情は、決して大人相手には見せないであろう表情です。うっかり、じっと見てしまうと、「何見てんのよ!」とむすっとした表情に戻りますが、またこどもを見てさっきの表情に戻ります。

相手が小さなこどもだとはいえ、人間関係に疲れた人(勝手にそう推定しているわけですが・・)でも人間に失望しきっているわけではないとわかり、ちょっと安心します。そんな無防備な表情を他人に向けられることに驚きさえ感じます。

人間、油断すると他人に攻撃されたり、嫌なことをされたり言われたり、したくないことをさせられたり、されたくない評価をくだされたりするから、恐い顔をしたり、無表情を装ったりして、他人との距離をとっているのでしょう。

人間関係に疲れた人が小さなこどもに見せるような表情を安心して誰にでも向けられるような世の中になったらなぁと思います。それは地上の天国のように安心して暮らせる世界のはず。

アメリカが日本に原爆を投下したときの米国大統領トルーマンは、かなりの人種差別主義者で、こどもの頃にいじめられたことが影響しているという話を相方から聞きました。そういうもので、人間、攻撃されると復讐心が生まれます。やられる前にやってやろう、という気になってきます。

小さなこどもの場合、自分がやられる心配がないから、無防備に親しげな表情を向けられるわけです。

お互いに、相手が無防備になるのを待っているだけでは、ずっと状況は変わりません。核軍縮と一緒で、お互いにちょっとずつちょっとずつ、攻撃力を減らしていく必要があります。

武器を持っていない人間同士の場合でも同じかもしれません。お互いに様子を見ながら、ちょっとずつ攻撃力を減らしていく。そのためには、お互いに対する信用がなければ難しい。時間がどれだけかかるかわかりませんが、いずれは、誰に対しても、小さなこどもを見るように無防備な表情を向けられるときが来るかも?


【関連記事】