「怒ってはいけない」というけれど、怒りは必要だし希望と表裏一体なのでは。



先日、映画「わたしの自由について 〜SEALDs 2015〜」を観たあと、相方が、「怒ったらあかんとか言う人おるけど、ああいう怒りはわるくないと思った」と言いました。「根底には希望があるというか」

ぼくもちょうど同じようなことを思っていたところでした。

前にも、鎌仲ひとみ監督の映画で、上関原発の建設に反対して祝島の人たちがボートで大声を上げて抗議している姿を見て、自分の中の何かが浄化されるような感じがありました。

「怒るのはいけないこと」だと誰かに刷り込まれ、普段、怒るべきところで怒れていなくて、怒りが本当は生まれているのに感じていないフリをしているだけなのではないかと。

もちろん、怒りの扱い方には慎重になる必要があると思いますが(扱い方を誤ると、自他を傷つけたり、自分を破滅に追いやることにもなりかねません)、「怒り」という感情が不必要なものなら人間に備わっていないのではないかと思います。

「怒らない」というと、仏教を連想しますが、仏教の教えでは怒りをどう扱うべきとされているのでしょうか。

ちなみに、一時熱心に勉強していた「引き寄せの法則」では、怒りのようなネガティブな感情というのは、自分が本当に望んでいることを知るための手段だと説明されています。ネガティブな感情が生じているということは、自分が今、それを欲していないということ。



引き寄せの法則 エイブラハムとの対話 (エスター・ヒックス, ジェリー・ヒックス)



欲していないそれではなく、自分が本当に望んでいるもの(思い描いたときにポジティブな感情が生まれるもの)を見極め、そこへ向かう解決策をわくわく、楽しい気分で実行していくべきだといいます。

ところが、困難な現実の中では、そういつも、わくわく楽しくはしていられないものです。「引き寄せの法則」を唱えたエイブラハムによると、自分の身体のことは、いちばん実現しやすいといいます。他人が関わってこないから。自分の意志で自分のことを変えるのは比較的簡単ですが、多くの他人の意志が関わる社会を変えようと思ったら、そう簡単なことではありません。

「集団的自衛権はいらない」「特定秘密保護法反対」「原発再稼働反対」「アベはやめろ」・・・。

いらないものだらけでまず「怒り」がこみ上げてきますが、その先には、求めている未来があります。

SELADsのメンバーたちは、自分たちの子どもの世代にもっといい世界を残したい、という気持ちの強い人が多い、というようなことが映画で言われていました。

彼ら・彼女らの「怒り」の奥には、「希望」を感じました。そういう怒りは、「引き寄せの法則」でいう、「ネガティブ」な感情というよりも、むしろ「ポジティブ」な感情ではないかと思います。

十把一絡げに「怒りはよくない」と考えていると、必要な怒りまで見失ってしまうおそれがあります。


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