批判によって何を生み出すかを意図することの重要さについて。



「人間は誰でもクリエイター」だと思います。人間は日々、「クリエイト(create、創造)」しつづける生きものです。

「クリエイター」なんていうと「どたいそう」かもしれませんが、誰かと話すのも、メールを打つのも、仕事の書類をつくるのも、ごはんをつくるのも、部屋を片づけるのも「クリエイション(creation、創造)」です。何かをぶちこわす行為ですら、この世に何らかの変化を生み出す「クリエイション」です。

言葉というのは、「クリエイション」のための道具の一つ。

言葉による「批判」というのも、「クリエイション」であり、それによって何を生み出そうとしているか、あるいは何が生まれるかをなるべく明確に詳細に意図することが大事だと思います。

違和感、反発心、嫌悪感、無念さ…そういったものが「批判」の原動力となることがありますが、それをどのような形で表現するかによって、その結果、「クリエイト」されるものは全く異なってきます。

たとえば、流行りの映画を観てみたところ、世間の評判に反して非常にくだらなく、下劣で、こんな映画が多くの人の時間を奪っているとは許せない!と憤りを覚えたとします。

この思いを、どのような形の「批判」として「クリエイト」するか。あらすじやシーンを挙げながら、いかにくだらないかについて、怒りを交えて書き綴るのも一つの方法です。その結果、何が「クリエイト」されるかは、ケースバイケースですが、たとえば、


  • 自分の鬱憤が解消される
  • 同じような感想を抱いた人の鬱憤を晴らす
  • 同じような感想を抱いた人に、自分の感想に対する自信を強めさせ、その感想をアウトプットさせる原動力となる
  • 同じような感想を抱いた人から共感のメッセージが寄せられる
  • くだらないという自分の感想に反発を覚えた人の怒りや不満を生じさせる
  • くだらないという感想に反発を覚えた人から、攻撃的なメッセージが寄せられる
  • 反発を覚えた人が、この映画がいかにいい映画であるかを示そうとする原動力となる


などが考えられます。

全く同じような形で「批判」をしても、誰がそれを行うかによって、「クリエイト」されるものは異なってきます。自分自身、映画をつくっている人なのか、映画評論を職業としている人なのか、映画の目利きとして有名な人なのか、世間的にあまり知られていない映画愛好家なのか…。「批判」が届く相手も、その数も異なれば、その結果、「クリエイト」されるものは異なってきます。

自分の批判がどういう人たちに届き、それを見た人はどういう気持ちになり、何を思い、何を考え、どういう行動に出るか。そこまで予想したうえで批判を行わないと、自分が望まないものを「クリエイト」してしまうことにもなりかねません。

特に、批判というのはネガティブな感情が付きものなので、ネガティブな感情は慎重に扱わないと、相手のネガティブな感情を引き出したり、相手を傷つけたり、あるいは跳ね返ってきて自分が傷ついたり、ということになりがちです。

かといって、自分がネガティブな気持ちを抱いたものに言及せずに放置しておけば、それが増大、拡大することもあり、それを防ぎたいと思うのなら、直接的・間接的な批判によって、自分が望むものを「クリエイト」していく必要があります。

ぼくは穏和なやり方を好みますが、自分や他人からネガティブな感情を思い切り引き出して「クリエイション」するのも一つの方法です(諸刃の剣ではありすが)。どういう形を選ぶかは、その人次第。ただし、その時々の感情に流されてやけっぱちになると、自分が望まないものを生み出してしまう可能性があるので、ひと呼吸置いて、その結果を入念に思い描いてみるのが大事ではないかと思います。


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