日常が退屈なのは、「受け身」だから? 生産的な楽しみを見つけよう。

By Dwight Sipler from Stow, MA, USA, via Wikimedia Commons


小学生だった頃、「ヒマだ、ヒマだ」と嘆いていた記憶があります。

都会育ちのぼくは、子どもの頃の遊びといえば、テレビゲームが中心。お小遣いをためて新しいゲームソフトを買っても、クリアして飽きてしまえば、また「ヒマ(退屈)」が訪れ、次のソフトを買います。

退屈を嘆くのは、受け身な生活をしているからだと、さっきふと思いました。暮らしに必要なものや娯楽などを、お金と交換で与えられる暮らし。

料理や洗濯や掃除に加え、畑仕事や庭仕事、裏山の手入れや地域の共同作業など、暮らしていくために必要な仕事の多い田舎や昔の暮らしでは、家族総出で仕事をしなければ間に合わず、子どもでも「ヒマ、ヒマ」と嘆いているヒマがないことが多いのではないかと思います。

都会暮らしでも、家の暮らしで子どもに手伝えることはいろいろありますが、ぼくはお手伝いをほとんど何もせず、ゲームするかぼけっとするか、生産性が限りなく低い子どもでした。

ゲーム以外では、ボール遊びをしたり、近所を探検したり、学校の宿題をしたり、ピアノの練習をしたり、塾に行ったり、友だちの家で遊んだり。

「遊ぶのが子どもの仕事だ」というようなことを聞いたこともありますが、その場合、自発的で想像力(創造力)を働かせるような遊びが望ましいと思います。大人たちによって枠や決まりが設定されたような遊びでは、与えられたものを「消費」するだけ、何かを生み出す喜びを体験できず、楽しみや喜びを自分でつくりだすことを学べません。

ゲームはその最たるもので、与えられた世界で、一定のルールのもとで、決められたゴールに向かって攻略していくだけ…しかも、飽きないように適度な刺激や満足感が得られるように巧妙につくられています。

子どもというのは本来、そんな人工的な「刺激」や「満足感」の仕掛けをつくらなくても、自然のなかに身をおけば、自由に遊びをつくりだし、飽きることなくいくらでも創意工夫し、楽しみや喜びを自分でつくりだしていけるものです。

先日、山に住む友人宅に子どもたちが集まる機会があり、子どもたちは竹の茂った山の中を駆け巡り、竹でいろんなものをつくり、飽きることなく疲れきるまで動き続けていました。竹で自分でつくったものを大人にプレゼントしている様子も見られました。自分でつくったものを、誰かに喜んでもらうというのは、ゲームではなかなか体験できないことです。ゲームでは、自分のスキルを高めたり、誰かと競争したり、資源を奪い合う大人の「競争社会」の縮図のようなものが多いですが、山には子どもたちにとっては無限の竹や木が生え、日が暮れるまで時間もたっぷりあり、そこで何をするのも、何をつくるのも自由。退屈そうにしている子どもは一人もいませんでした。

受け身で、誰かが「面白いもの」「刺激的なもの」を与えてくれるのを待っているから退屈になるのです。自分で何かをつくり出す楽しさや喜びを知れば、いくらでもすること、したいことがでてきて、退屈することはありません。

一緒に森林活動をしている方からお聞きした話では、3歳のお孫さんが田畑が大好きで、毎日、それが楽しみで早起きしておにぎりを持って起こしにやって来るそうです。子ども用に作ってあげた腰道具(鎌やスコップなど)を付け、小さな鍬で立派に畑を耕している動画を見せてもらいました。どこにどんな野菜が育っているか全部知っていて、収穫もしてきてくれるそうです。小さい頃から、こういう生産的な楽しみがあっていいなぁと思いました。


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