知識をため込んで自慢するのは、工具を買い集めてひけらかすのと同じ



知識は大事です。ただし、活用しなければ意味がありません。

知識は道具です。工具をいろいろ買い集めても、それを使って何も作らなければ意味がないのと同じように、知識もそれを活用して何かを生み出していかなければ無意味です。

そんなことは当然、誰でも頭ではわかっているものですが、知識の量や質で競ってしまいがちです。知識偏重型の学校教育の弊害もあるのでしょうか。「ものをいっぱい知ってる人はエラい」という思い込みがあります。それも一理あるのですが、もっと正確に言うと、「ものをいっぱい知ってる人は、偉いといわれるようなことをするのに役立つ道具がそろっている」というくらいのものでしょう。

学校では、知識の蓄え方は教わっても、その活用の仕方はあまり教えてくれません。知識自体を蓄えることは大事だと思いますが、活用できなければ意味がない。何をどう活用すればいいのか分からなければ、「何で勉強する必要があるの?」という疑問が生まれてくるもの当然です。

知識にはある程度、正解・不正解がありますが、知識の活用の仕方はもっと自由度が高い。知識を活用して何を生み出すか、何をするかは、人それぞれの意思に任せられています。

溜め込んだ知識を誰かに自慢してすごいと思ってもらう、というのも、一種の活用の仕方ではありますが、それは「創造性」に欠ける活用方法でしょう。そういう活用の仕方を念頭に置いて知識を収集していると、自分の知識と他人の知識を比較して優越感や劣等感を感じやすい傾向があるように思います。

その一方で、知識をもっと意義のある「創造」のために活用しようとすれば、他人と自分の知識を比較してもほとんど意味がないので、自分の知識を活用するとともに、他人の知識にも助けてもらおうという意識が生まれてくるのではないかと思います。人間、自分のためこんだ知識を、何か有意義なことのために使えるとうれしいものです。お互いの知識を比べて優越感や劣等感を感じていても楽しくありません。それぞれの知識をかけ合わせて、お互いにもっと楽しく幸せになれることのために使っていきたいものです。