「正解」がわかっていなくても、どんどんアウトプットしていけばいい。



日本の学校(少なくともぼくが通っていた学校)の授業で教わるのは、「正解」の決まっていることで、授業中に発表するにしても、「正解」をわかっている人だけが手を挙げて発表するわけです。

そういう教育を何年も受けて育つと、意見を発表するなら「正解」でなければいけないという暗示がかかってしまいます。

だからでしょうか、真面目な人や、正解を追求しようとしてそうな人ほど、あまり意見を発表しない傾向があるように思います。「自分はまだ意見を言うほど、これについてははっきりわかっていない」と考えるわけです。

ところが、現実の世の中というのは、「正解」で動いているわけではありません。多数派の意見が通ったり、声の大きい人の意見が通ったりするわけで、最初から「正解」が決まっている学校の勉強の世界とは異なります。

そもそも、一つの「正解」なんてない場合が多い。

「正解」が見つかってから意見を言おうなんて思って黙っているうちに、世の中はどんどん先に進んでいきます。自分でもあきらかに「間違っている」と知っていても、お金や権力や保身のために意見を言う人は、開き直って声が大きく数も多いものです。

「なんかおかしいなぁ」と思ったら、その違和感だけでも表明していけばいいのだと思います。

「多くの人はこう言ってるけど、そうかなぁ。自分はこう思うんだけど、何でそう思うの?」
お互いの考えの違いを知り、話し合ってみることが大事です。

「それについては何も知らないんだけど、どういうこと?」
知らないことも堂々と言っていいのだと思います。直接誰かの話を聞くと、「なるほど」と思うことと、「そうかなぁ」と思うことがでてきます。それは、自分でいろいろ調べていくときのいい「とっかかり」になります。

まずは、知らないことを認めること。そして、知っていることだけを材料に、自分の頭で考えてみること。それから、知りたい情報を探してみて、またそれをもとに考えてみる。このサイクルに終わりはありません。「正解」にたどりついてからアウトプットしよう、というのでは遅過ぎるし、そんなときがいつやって来るかもわかりません。このサイクルのどの過程においても、常にアウトプットしながら繰り返していけばいいのだと思います。