「言葉」と「行動」、どっちも「創造」のための手段だということ

by Ancient Egypt, edited by David P. Silverman


ブログを毎日書きはじめてから、以前よりかは少し思い切りよく言葉を使えるようになったと感じています。

言葉を扱う仕事をしてきたからか、前は必要以上に自分の言葉に慎重になっていたところがあるように思います。言葉に自分の内実がともなっているか、言行一致しているかどうか、自分にそれを言う資格があるか、というようなところです。

そういう意味では、自分自身の体験として既に生じたことをそのまま書くと、一番安心感がありました。こういうことをして、そのときに何を考え、何を感じたのか、と。

ところが、これだって、自分の体験を何もかも書くのではなく、何を書くかは自分で選んでいるわけで、他者に見せたい部分だけを表現しているわけです。そういう疑問はありました。

でも、それでいいのだと思うようになりました。何を表現し、何を表現しないにせよ、結局、表現しているところに、表現していない部分も含め、自分の総体としての力量があらわになるものです。

言葉というのは、自由度の高いものです。

過去について書くこともできれば、未来について書くこともできる。

何を書こうと、結局は未来を「創造」していくための手段であり道具です。

過去のことを書こうが、未来のことを書こうが、読むのは「今」であり、読み手の中で生まれた思考や感情が「未来」をつくっていきます。

言葉か、行動か、という対比は無意味です。どっちも、「創造」のための行為です。

「行動」といっても、人間と人間が関わる限り、常に「言葉」が伴うものです。「言葉」といっても、「言葉」を発すること自体が「行動」とも言えるでしょう。

「創造」に意識の焦点を当てると、「言葉」と「行動」の境が自分の中で薄れてくるのを感じます。