2016/03/13

自分が嫌なことを誰かがした結果生まれたものを消費することについて。


「これ見て、美味しそうやと思う?」と、相方がぼくにたずねました。

先日、お肉を見て美味しそうだとぼくが言ったので、相方はぼくが非情な人間になったのではないかと心配したのかもしれません。

うーん・・・このつぶらな瞳の牛たちを見ると、美味しそうには見えません。

「牛さんは神様やで」と相方。

高松の片原町商店街に祀られている牛の石像を思い浮かべました。なでると病気が治ったり頭がよくなったりするとされている「撫牛(なでうし)」。綾川町の滝宮天満宮でもよく撫でています。

この写真に載っているような牛を「どうぞ」と生きたまま与えられたら、ぼくは殺して食べることはしないでしょう。飼える場所があるなら、放牧して一緒に暮らすかもしれません。

最近は、家で動物のお肉を食べることはめったになくなり、外食でラーメンに乗っている鶏肉を食べたり、小鉢料理にたまたま入っていたお肉を少しいただく程度です。イノシシ肉やシカ肉を使ったジビエ料理は結構好きですが、食べる機会はそんなにありません。放し飼いの鶏や野生のイノシシやシカのお肉は美味しいと感じますが、配合飼料を与えられて小屋の中で生きてきた動物のお肉はあまり美味しいとは思えません。飼料の農薬や放射能や遺伝子組み換えも心配です。

「自分で殺せないものを他人に殺してもらって食べる」ということにも違和感を覚えます。

野菜は自分で殺せますし、殺しても心の痛みを感じませんが、牛や鶏などの動物を自分で殺そうとは思えません。

自分で殺せないものを誰かに殺してもらって、最後の食べるところだけはするよと…それはどうなのかと。(そう思いながらも、まだ時々食べているわけですが…)

自分で可愛がって大事に育てた動物を、ときどき殺して大事にいただく。ぼくはそういう経験をしたことがありませんが、動物の命を大事にしながら、それでも自分が生きるために時々殺して食を得ている人もいるでしょう。

かたや、動物をモノのように扱い、大量に子どもを生ませ、無理やり太らせ、注射を打ったり化学物質漬けにし、どんどん殺す…そういう世界もあるわけです。たくさんの鶏が狭いところに閉じ込められて口に突っ込まれたチューブでエサか何かを与えられている写真を見て衝撃を受けたことがあります。

お店で買うお肉や、外食先で出てくるお肉は、どうやって育てられた動物のお肉なのかわかりません。その育てて殺すまでの過程を、自分でもできるか、やりたいと思えるか。自分がやりたくないことを他人にやらせて(やりたくてやっている人もいるかもしれませんが、生計を立てていくために気が進まずにやっている人もいるでしょう)、そうして生まれたものをお金を払って得る、というのはどうなのか…。

これは、お肉だけの話に限りません。

「イエロー・ケーキ 〜クリーンなエネルギーという嘘」(ヨアヒム・チルナー  監督)という映画で、原発の原料となるウランの採掘現場で働き、大量の放射能を浴びてがんや白血病などの病気になっている方たちがたくさん取材されていました。こわくないと口では言うけれど不安そうにしているカナダの若い女性たちの表情が忘れられません。どんな理由があろうと、原料のウランを得るためにこんな犠牲を強いるようなものがあってはならない、と思いました。


イエロー・ケーキ~クリーンなエネルギーという嘘 [DVD]


どんなモノやサービスにしても同じことです。市場に出回るモノやサービスは、商品となって完成したところばかり目につきますが、それができるまでの見えない過程を知ったら購入や利用をとどまりたくなるようなものが世の中には溢れていることでしょう…。

自然界から材料を自分で入手してつくったもの(畑の野菜など)や、顔や現場の見える相手がつくったもの(友人が近所の山で伐った木でつくったまな板など)は一番確実ですが、材料の出どころやつくられた工程がわかりにくいものもあります。「トレーサビリティ」という言葉がありますが、商品ができるまでの工程をもっと見えるようにしよう、という動きも高まっています。常に完全に実行することはほとんど不可能に近いですが、その商品がどこでどんな材料でどうやってつくられたか、ということを、なるべく調べてから買いたいと思っています。

うしろめたくない方法で自信をもって商品をつくっているところは、そういう情報をどんどん開示していってくれています。そういうところの商品を選ぶことで応援していけば、やりたいくないことをして犠牲になっている人を減らしていくことにもつながると思います。

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