建て前のコンテンツと本音のコンテンツ

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4 faced Ngontang Helmet mask, Fang, Gabon by Ann Porteus on flicker

フェイスブックはこれだけユーザーが増えてつながりも増えてくると、ますます「建て前」が求められる(あるいはそういうプレッシャーを感じる)プラットフォームになってきているのではないかと思います(ぼくはもうやめましたが)。

あるいは、場の雰囲気に合わせて演じている人が多いわけです。

だいぶ前の話ですが、仏生山温泉に一人で来ていた若い男の人が、ロビーの席までかき氷を届けてもらうと、スマホでその写真を撮って画面をすりすり文字入力しているのが目に入りました。フェイスブックか何かに投稿していたのでしょう。おそらく楽しそうな感じでコメントを書いているのだろうと思いましたが、つまらなさそうな顔をしていました。こうして、「建て前のコンテンツ」というか「場の雰囲気に合わせたコンテンツ」が生まれます。

その反対に、例えば小説というのは「本音のコンテンツ」が求められる表現手段でしょう。そうでなければ面白くない。上の場面を一人称で書くとすると、例えばこんな感じになります。


湯上がりに冷たいものが食べたくなった。ロビーでスノコのテーブルの前に座り、窓の外をぼんやり眺めていると、緑色のキウイシロップのかかったかき氷が運ばれてきた。俺は反射的に上着のポケットからスマートフォンを取り出し、写真を撮ってフェイスブックにアップした。「湯上がりのかき氷、最高!」とコメントをつけて。早速「いいね」が3個ついた。あいつらは、俺が平日の有給休暇を満喫していると思って羨ましがっているのだろうが、一人で食べる山盛りのかき氷はどこかもの寂しかった。


これくらい本音の心情を書いてこそ、小説を書く意味がありますが、フェイスブックではそういうことは書くにくいわけです。

「facebookはそういう場所なんだからそれでいいじゃない」「facebookだって本音で書いてる人はいっぱいいるよ」、と思われるかもしれませんが、全体的には誰かに気を遣いながら表面的に書いている投稿が多いようにぼくには見えます。強制されたわけでもないのにわざわざ建て前や場の雰囲気に合わせて表面的なことを言っている時間があれば、自分の現実をもっと楽しく充実したものにするために時間を使いたいとぼくは考えます。

読み手としても「建て前のコンテンツ」よりも「本音のコンテンツ」を読みたい。フェイスブックで遠慮して何か書いている時間がれば、もっと自由になれる場所で「本音のコンテンツ」を創っていく人が増えればいいのになぁと、密かに願っています。