文体について。文章には書き手の本性がにじみ出る

「文は人なり」というように、文章は書き手がどういう人間であるかを如実に現します。自分の本性以外のものを装ったところで、まとまった量の文章を書けば、その内容から、あるいは文体から、その人の本性がどこかに発露するのは避けがたいことだと思います。

文体とは何でしょうか。文字通りには文の「スタイル」といったところですが、そのスタイルを形成しているのは、根本的には書き手がどういう人間であるかということと、その文章を書いているときの書き手の心もちだと思います。だから、同じ人間でも年を経ると文体が変化するし、同じ時期に書いたものでも、その時々によって文体は異なります。

もちろん、その文章の目的や種類によっても文体は変化します。友だちに送るメールと、仕事での報告書、自分だけが読む日記をどれも同じような文体で書く人はいないでしょう。手紙というのは比較的改まって書くもの、メールは(特に若い人に間では)話すように書くもの、などと、ある程度は皆が従っている形式というものがあります。それを破るのは別に自由なわけですが、その形式にある程度従いつつも、各人で文体が異なるのは、やはりその人の人間そのものと、その時の心もちの違いだと思います。

形式が心もちのあり方に働きかけるということもあります。例えば、縦書きで書くと、横書きで書くよりも改まった気持ちになり、文体が堅くなる傾向があるように思います。ぼくは一時期、縦書きにこだわっていて、プレゼントに添えるメッセージカードまで縦書きで書いていましたが、友だち宛てなのに堅くなりすぎるので、最近は横書きで書くようにしています。面白いことに、使用する文房具によっても文体は変化します。あるとき、日常を題材にした随筆を筆ペンで書いたところ、一文がいつもより全体的に短いことに後から気づきました。筆ペンで書くとボールペンよりも文字が大きくなるので、その影響もあると思います。

自分が尊敬したり、憧れたり、目標としたりしている人の文体に似てくるということもあります。ぼくは一時期、武者小路実篤さんの文章ばかり読んでいて、その頃は完全に文体が乗り移っていました。真似しようと思って書いていたわけではないのですが、同じ人の文章ばかり読んでいると、どうしても似てきます。そこから抜け出すのに結構な時間がかかりました。当時、武者小路さんの思想に完全に、といっていいほど共鳴していたのですが、思想の上でもそこから抜け出すにつれて、ぼくの文体も変化していきました。それを考えても、やはり文体というのは小手先のものではなく、一人の人間のもっと総合的なところと連動しているように思います。

こんな文体で書けるようになりたい、と思って真似をしたところで、借りものに過ぎません。自分が理想とする文体にふさわしい人間になるしかないと思います。たとえぎこちなくても、青臭かろうと、そのときの自分に見合った自然な文体で書くのが一番だと考えています。


【関連記事】

by 硲 允(about me)
twitter (@HazamaMakoto)
instagram(@makoto.hazama