「遊ぶように暮らす」ことについて。もっと自由な人生を・・・


田舎暮らしの日々の仕事は、労働というよりも遊びに近い。

畑仕事、庭仕事、暮らしのものづくりや繕いなどは、自分や一緒に暮らす人のためにすることであり、誰かにやらされてすることではない。いわゆる労働のように、他人からの指示も締め切りもなく、自分の好きなように、好きなペースでできる。遅れても失敗しても、困るのは自分たちくらいのもので、他人に迷惑をかけることもなく、余計なプレッシャーがない。

「遊んで暮らす」なんて言うと、怠けているような、不謹慎な感じがするけれど、人間は本来、遊ぶように暮らせるはずなのではないかと思う。

自分の暮らす家を自分たちで建て、必要な食べものを自分で育て、着るものも自分でつくれば衣食住こと足りる。自分で家を建てるのはずいぶん困難なことだと思っていたけれど、主に土で建てるコブハウスのことを知ってからは、自分にも可能だと思うようになった(コブハウスは日本ではまだ数少ないようだけど、googleでイメージ検索してみるといろいろ出てくる)。

現代社会のいわゆる労働に、現代の人間の一生の大半の時間が費やされている。そんな労働に、喜びとやりがいを見いだせているならラッキーだけど、生き延びていくために仕方なくせざるを得ない状況に陥っている人が大半だと思う。その労働によって生み出しているものが、人間の喜びや幸せに役立っていると思える人は、そのうちどれくらいいるだろうか。毎日のように朝から晩まで、したくないことをして、しかもそれが大して誰かの喜びや幸せにつながってそうにない、というのは悲しすぎる。

全く何の意味もないことをしている、と感じる人は少ないと思う。人工的なもので埋め尽くされた現代社会では、それがないと困るように思える人工的なものがあふれ、それを生み出し続け、維持し続けることが必要であるように見えるようになっている。しかし、多くの人間が生き方、暮らし方を変えれば不必要になるものも山のようにあるはず。ぼく自身、パソコン、ケータイ、カメラ、自転車など、日々助けてもらっている人工的なものもあるけれど、ショッピングモールに行くと、タダでくれるとしても要らない物で溢れている。

「遊ぶように暮らす」には、自分に必要なものをなるべく自分でつくり出すことが必要。必要なものを何でも買って済ませるには、それなりのお金が必要となり、暮らしに必要なものを買うお金を稼ぎ続けるには、たいてい人工的な物が溢れる世界に首を突っ込んで格闘し続けなければならない。たいていは心地よくない労働に時間を取られ、自由に考え、ものを想う時間がほとんど残されないことが多い。

誰だって、なるべく自由に生きたい。誰だって、自分が毎日している(してきた)ことに大して意味がないとは思いたくない。もっと自由に生きたいという気持ちと、今の自分の生き方を肯定したいという気持ちが合わさると、もっと自由に生きたいという気持ちが打ち消されることが多いかもしれない。変化を起こすよりも、現状維持のほうがラクであり、誰だって、今の生き方や暮らしにも喜びや幸せはあり、そこに目を向けたい。

とはいえ、今の生き方や暮らしのいいところに目を向けつつ、さらによくしていくこともできるはず。いきなり大きな変化を起こすことは難しくても、少しずつなら変わっていけるし変えていける。

そういうぼくは、人間はもっと自由に生きられるはずだということに数年前に気づいてから、したくないことを少しずつ減らし、したいことを少しずつ増やし、前よりもだいぶ自由に暮らせるようになった。自由を求めて歩き始めたばかりだけど、この道を歩き始めると後戻りはできない。

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by 硲 允(about me)
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