物事が上手くいかないのはなぜか? 自分のゴールは自分で決める


物事が上手く進まないとき、人間はいろいろな理由を考える。

「自分の努力が足りなかったから」「~さんのせい」「今はタイミングじゃなかったから」「もともとそういう運命だったから」、あるいは、「結果はどうあれ、起こったことすべてに感謝しよう」・・・。

最初の2つ以外は、自分のせいでもなく、誰か他の人のせいでもなく、見えない大きな何かを理由としている。物事が上手くいかない理由をそうやって自分に納得させることは簡単だが、「自分の意志で現実をつくっていく」努力を怠る理由になってしまう危険性もある。

人間は誰しも本来、「自由な意志」をもっていて、自分が望むものをつくり出していく能力をもっているものだと思う。ある人の意志と、別のある人の意志が交わったとき、同じところを目指していればかけ算で相乗効果がもたらされることもあれば、別の方向を向いていれば、相殺したり、どちらかの方向性をもう一方のお方向性にたぐり寄せることもあるかもしれない。

物事を自分の望む方向に進め、自分が望む結果を得るためには、その方向性をはっきりと定め、望む結果をくっきりと思い描き、自分の意志や思考や身体を使ってそこへ進んでいく必要がある。まずは自分ありき。方向性を同じくする他人が助けてくれることもあれば、方向性が異なる他人が自分の行く手を阻んでくることもある。

数多くの人間が異なる意志をもって暮らすこの世界で、常に自分の望み通りの結果を得ることは簡単ではない。しかし、上手くいかないときに、他人や、見えない何か大きなもののせいにして、自分の望む方向へ自分の足で歩むことをやめてしまっては、自分の望む場所にたどり着けなくなってしまう。途中で立ち止まって再考し、自分の意志で方向を変え、そこへ向かって新たに進み始めるのはありだと思う。最初から最終的なゴールはなかなか見えない。ゴール地点は他人に与えられるものではなく、それすら自分で決めるもの。手探りで進みながら、ぼんやりと遠くのゴールを思い描きつつ、もっと近くの中間ゴールを定めていったほうが前に進みやすいと思う。

ゴールを定めずに何となくふらふらしていると、自分がどこへ向かっているのか、何のために動いているのかわからなくなってしまうおそれがある。「どこでもいいなら、自分がゴールへ行くのを手伝ってくれ」と誰かに頼まれ、感謝されるのがうれしくてよくわからないままお伴していると、居心地のわるい場所にたどり着いてしまった、ということにもなりかねない。

「ここは自分にとっては居心地がよくないので、一人離れて引き返します」とはなかなか言えないこともある。誰かに連れてきてもらった道を一人で迷わずに引き返すことはそう簡単ではない。そこに留まる理由として、目に見えない何か大きなものをもちだすことは簡単だ。自分を騙しだまし納得させれば、居心地がよくなくても何となく生きていくことができ、何となく月日は過ぎていく。

昔、ある人が言った。「息子をレールに乗せました」。人間は誰かが敷いたレールの上を運ばれていくこともできるが、人生ゲームのコマではないので、自分の意志でそこから抜け出して、自分で自分の望む方向へ進んでいくことができる。

ずっとレールの上を運ばれてきたのに、いきなりレールの外に飛び出したら、どこへ進んでいいかわからないのは当然かもしれない。まずは近場を探検しながら、レールの外にいる人間に話を聞き、レールの上から見えない世界をおそるおそる歩きまわっているうちに、どこへでも進んでいける準備が整い、進んでいきたい目的地も見つかるかもしれない。

自分の決めた方向へ自分で進み始めると、自分で進まないことには自分の望む方向へなかなか進めないことがわかってくる。道の途中で、自分よりもその辺の地理に詳しい人が道案内してくれることもある。行き先が決まっていれば、その場所を正確に伝えることができる。自分で道を選んでいくことに疲れたときなど、間違った案内人についていってしまうこともあるかもしれないけれど、途中で気づいたら、「さよなら」してまた自分で道を探せばいい。そのうち、一目見て、一声聞いて、その案内人を信用していいかどうか感じ分けられるようになるかもしれない。どんなに優れた案内人がいても、自分で目的地を定めていなければ、案内人もどうしていいかわからない。自分が望む方向を察してさりげなく提案してくれるのはありがたいが、そんな案内人ばかりではない。

「行きたい場所はどこですか?」まずは自分で自分に問いかけ、自分で進んでいくことから始めたい。


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