「どうして勉強しないといけないの?」インプットよりアウトプット中心の学校教育を



学校というのはどうしてたいていつまらないか。その理由の一つに、「インプット」ばかりして「アウトプット」の機会が少ないということがあると思う。

45分から1時間半もずっと椅子に座って誰かの話を聞かされていたら気持ちがまいってくる。それが一日に何回も続くと、「インプット」で疲れて何かを生みだそうという気力も奪われてしまいかねない。

情報や知識というのは、何かをつくり出していくための材料でしかない。それ自体をためこんで頭の中にしまいこんでいてもあまり意味がない。ところが、学校ではたいてい、毎日毎日教えこんでいる情報や知識を何にどう活用したらいいのかは、ほとんど教えていない。

使うあてもないのに、材料を次から次へと仕入れる気にならないのは当然だと思う。料理をしないのに、食材を山のように与えられても腐らせてしまう。

「何のために勉強しなければいけないのか」ときかれて答えられないなら、他人に勉強を強いる資格はない。

「~のためだよ」と答えて、相手がそれを必要だと感じないなら、勉強を無理強いする資格はない。「後々何かの役に立つはずだから」ではまともな理由にならない。

「何のために勉強しなければいけないのか?」その問いは、屁理屈ではなく、まともで根本的な問いだと思う。

何かをつくったり生み出したりするには、そのための知識や情報や材料が必要となる。そのときはじめて、何かを勉強する必要性を自分自身で感じる。

人間、何をつくり、何を生み出していくべきなのか。自分が幸せになるものをつくり、生み出していけばいいのだと思う。本当の幸せを感じるには、それは他人にとっての幸せにもつながるものであるはずだと思う。

何をつくり、生み出していきたいかは、人それぞれ異なる。それはそれぞれが自分で考え、感じ、気づくもの。

現代社会では、「アウトプット」を軽視して「インプット」し続けることが当たり前になりやすい。何をつくったらいいかわからない場合、ひとまずは暮らしで必要なものをなるべく自分でつくってみると、アウトプットの回路が開けてくるかもしれない。料理したり、生活空間を快適につくったり、電動にたよらず手足を動かして暮らしたり。

子どもたちが参加するイベントをすると、子どもたちは知識や情報をインプットするよりも、手足を動かして自分で何かをつくっているときに生き生きした表情を見せる。かといって、知識や情報がどうでもいいと思っているわけではなく、何かをつくるために本当に必要なものであればあっという間に吸収し、自分の生産活動にすぐに生かしていく。

学校で「詰め込み」ばかりしておいて、学生を卒業して働き始めてから急に「生産性を高めろ」と言われても無理な話。しかも、生み出したいと心から欲しないものをもっと生み出せと言われても、やる気が出ないのは当たり前。

そんなことは誰でもわかっていることだと思うけれど、相変わらずの学校教育が続いているのは、人間の惰性と無気力と奴隷根性のせいだろうか。

これから30年後には、日本の学校教育の内容も大きく変わっていると思う。おかしなことに気づいて思い切りのいい人から、既存のルートを抜け出して新しいものをつくり始めている。


【関連記事】