「お金のために仕事をする」ことについて思ったことを徒然に。



「(現代社会で)生きていくためにはお金が要る」→「お金を得るためには仕事をする必要がある」→「生きていくためには仕事をする必要がある」というわけで、何の疑問も感じずに当たり前に仕事をしている人もいるかもしれないけど、「お金って何だろう?」「仕事って何だろう?」と改めて考えてみる時間も機会も余裕も少ないのがこの現代社会。

ときどき都会に出ると、「お金がないとどうしようもない」ことを知らされる。食べ物を得るにも、寝るのにもお金が必要。あたりを見まわすときらびやかな物であふれているが、その恩恵を受けるにはお金が必要。お金があれば何でも手に入って、何でも解決できると思う人が現れても不思議ではない。

ぼくはお金がたくさんあったら、自分の自由にできる森や山がほしいけれど、都会で買えるものにはあまり興味がない。工場で作られたブランド品よりも、心を込めて手でつくられたものが好き。色とりどりでぴかぴかのパッケージに入った添加物だらけの高級食品よりも、畑で育った野菜のほうが美味しくて安心して食べられる。

東京で10年くらい暮らしていたことがあるが、都会で暮らしていると、生活費だけであっという間にお金が飛んでいく。食べて寝て休むために必要なお金を得るために、どれだけの時間を仕事に費やさなければいけないことか。楽しくて好きでやりがいを感じられる仕事だったらいいけれど、現代社会ではそうでない仕事のほうが圧倒的に多い。自分や家族の衣食住を不足なく快適に暮らしていくためには、多少不満や苦痛があっても、乗り気になれない仕事に日々を費やさざるを得ない状況にいつの間にかなっているのが現代社会。

何のために仕事をするのか? 第一にお金のため? お金は快適に生きていくために必要なもの? お金が大してなくても、快適に生きていく方法がありそうだと思った人たちは、お金のあまりかからない快適な暮らしを模索しはじめる。ぼくは東京にいた頃、気の進まない仕事をなるべくしたくなかったので、なるべくムダなことにお金を使わず、気の進まない仕事を減らす方向に進み始めた。いくら節約したところで、東京では家賃だけでも生活費がけっこうかかる。香川に移住してからは、家賃が10分の1くらいに減り、気の進まない仕事をますますしなくてよくなった。田畑でお米や野菜も育つ。食べて寝るだけなら、毎週数時間、パソコンに向かうだけでよくなった。とはいえそれ以外にもお金は必要なので、未だにあまり気の進まない仕事もしている。

「仕事」とは何のためにするのか? 自分でそれぞれ考えて決めたらいいことだと思うけれど、ぼくは、「自分がこの世で生み出したいものをつくり、そのことに喜びを感じる」ためにするものだと思う。なかなかそういう領域には入りきれないけれど、そういうところを目指している。日々、気の進まない仕事に追われていると、そんなことを考える暇も余裕もないけれど、気の進まない仕事をせずに衣食住の不安なく暮らせるようになってようやく、自分の「仕事」についてじっくりと考えることができた。

仕事の意味など、人生の根本的なことを考えるには、現代社会には雑音が多すぎる。新聞もテレビもラジオもSNSもしばらく遮断しておかないと、現代社会が押し付けてくる考えに流されてしまいやすい。ときには森の中を一人で歩くのもいいかもしれない。近場だと、神社に残された木々が都会のオアシスのような静けさで迎えてくれる。