「気に入る」という言葉を語源で考えてみる。誰からも「気に入られ」ようとするのは危険!?

畑や森に行くと、「氣」の流れがよくなるような「気」が…


「気に入る」という言葉が生まれた頃の人間は、現代に生きる人々よりも「氣」に敏感でもっと意識的にコントロールしていたのではないかと思います。

この言葉がいつ頃生まれたのか知りませんが、明治の頃の小説を読むと、「誰々の気に入られる」という表現に出くわします(現代では「誰々に気に入られる」と言う人が多いと思います)。「誰々の気」と言うほうが、この「気」が誰のものなのかがはっきりした印象を受けます。

「気に入られる」というのはもう慣用句になって、今ではこの言葉を使うときに「氣」を意識する人は少ないのではないかと思いますが、かつては、物理的な「氣」の働きを意識して用いていた言葉だったように想像します。

「気に入る」というのは、「好みに合う」という意味合いで用いますが、文字通りに解釈すると、自分の「氣」に取り入れる、ということ。好みに合うし、自分にとって望ましいものだと判断したから、自分の「氣」に取り入れるわけです。

ところが、「好みに合う」ものだけを「氣」に入るならいいのですが、好ましくないと思うものまで自分の「氣」に入れてしまうこともあります。ぼくはもともと、平和な環境で育ってきたこともあり、目の前の人に共感しやすいところがあり、油断すると何でも自分の「氣」に入れてしまいます。何かの本を読んだ後、相方はぼくの顔つきや話し方から「誰々の本を読んだでしょ!」と当ててしまうくらいです。ブログを毎日書いてアウトプット主体にしていると、そこまで影響されにくくなりますが、朝起きてすぐは他人の影響を受けやすいので、朝起きてすぐに本を読むことは相方に言われて禁止になっています。

「この人に共感(同調)したら、嫌な気持ちになったり、自分のエネルギーが奪われる」と思ったときは、自分の「氣」のバリアを張るようにしています。望まないものを「気に入れて」しまわないように。レイキなどの本を読むと、ピンク色のオーラで自分を包む、などと書かれていることがあります。ぼくの感覚では、胸の前まで迫ってきた相手の「氣」を跳ね返したり受け流したりする感じです。

「気に入る」という言葉を語源でイメージしてみると、「誰からも気に入られる人間になる」というのは、相手に合わせて、その相手に好かれるような人間にどんどん変化し、相手の気の中に次々に取り入れられてしまう映像が浮かんできます。

誰かに「丸ごと」気に入られる人間になろうとすると、自分を見失ったり望まない方向に曲げたりしてしまうおそれがあります。

人間それぞれお互いに、一部は気に入るし、一部は気に入らない、それくらいでいいのではないかと思います。


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