実は、「悟り」に憧れていた時期があります。

一時期、作家の武者小路実篤氏の思想に傾倒していた頃がありますが、そこから抜け出すきっかけになったのは、自然農法を提唱した福岡正信氏の『自然農法 わら一本の革命
』という本でした。



読んだのは5年くらい前のことで、その内容について記憶は曖昧になっていますが、科学の道を歩んでいた福岡正信さんが病気にかかり、意識が朦朧としていたときに木の下で悟りを開いたような状態を体験し(「悟った」とは書いていませんでしたが)、人為は無用だというひらめきを得て、大地を耕さず、肥料や農薬を一切使わずに豊かな収穫をもたらすという「自然農法」を確立する話でした。

この本に続いて、福岡正信さんの他の本もほとんどすべて読みました。人知や人為は無用だという考えに触れ、自分の今までの価値観が揺るがされました。悟っていない人間の目に映るこの世は真実の姿ではない、草木も鳥も、悟った者が見ると全く違ったように見えるというような一節を読み、自分のこの世の真実の姿を見てみたいと思ったものです。

無〈2〉無の哲学(福岡正信)』という本では、キリスト、仏陀、老師、ソクラテス、達磨、孔子、ガンジー、トルストイなどの覚者や思想家、作家などを、悟りのレベルを表すピラミッドの図に位置づけていました。当時はその図を参考にして、「まずは悟った人の本しか読まないでおこう」と思ったものです。



自分に見えている世界は虚像だと思い、その頃は文章を書くのもやめていました。

キリストも、仏陀も、老師も、みんな同じことを言っている、と福岡さんは書かれていました。たしかに、老師の本を読んでみても、表現は違えど福岡さんと全く同じことを言っているように思えました。

当時はそういう本ばかり読んでいたのですが、だんだん日常生活が窮屈で息苦しくなってきました。悟った人の考えや境地というのが、頭の中で何となくわかっても、自分自身はそこからはかけ離れた世界に居つづけているわけです。頭だけで偉くなったような気になる恐れを感じました。それに、他人の発言や、自分の心の動きを、悟った人たちの境地と照らし合わせて否定しがちになります。自分が実現したいのにできていないことというのは、他人の中に見いだして拒絶してしまいがちです。

「これではあかんなぁ」という思いが募り、あるとき、悟りの世界のことは一旦脇に置いておき、物質世界を楽しもうと、はっきりと思いました。会社に向かう途中、山の手線の田町駅の2階の改札を出て、外の景色を見ながら歩いていたときでした。駅前に店の並ぶ派手な景色が妙に輝いて見えました。

ちなみに、その後もしばらく、福岡正信さんの思想に大きな影響を受けていましたが、そこからの突破口となったのが、『アナスタシア (響きわたるシベリア杉 シリーズ1)(ウラジーミル・メグレ 著)』という本です。

人知や人為は、たしかにものによっては無用なものがあるけれど、人知や人為自体が無用なのではない、と思うようになり、生きる希望のようなものが生まれ、自分が望むものをこの世に生み出していきたいという意欲と熱意を呼び覚まされました。




アナスタシア』を読んでからは、文章を書きたいという気持ちがまだ戻ってきました。

今のぼくの考え方や価値観というのは、これまでに出会ってきた人たちや読んできた本に影響されて形づくられてきたものですが、今は前ほど、誰か一人の思想に影響されている感じがありません。頭で理解することと、自分が体現すること、あるいは自分の心で実感することとの違いが前よりもはっきりしてきたことも大きいと思います。そうなってからは、文章も比較的自由に書けるようになってきました。